息子、学校行かないってよ。
◇
最近、調子がいいので油断していたのである。
朝食、着替えまでは順調だった息子。
一緒に出かける私の家事が終わらないものだから、ランドセルの中身を詰めるでもなく、朝から遊んでいた。
「自分でランドセル持ってきなよ」
そうすれば早く学校に行けるではないか、ということで言ったのだが。
息子は「何だよー、遊ぶ時間ゼロかよー」と文句たらたらだ。
そこから怒涛の不平不満が始まった。
学校は最悪だ。
勉強はつまらん。
友達はいじめてくる。
しかし学校に行かないと、将来金を稼げないから、仕方なく行っている。
まあ、一々ごもっともではあるのだが。
妻は「じゃあ学校行かないの?」と聞くのだが、そのたび息子は、不満そうに「行くよ」と答えている。
ああ、文句は言いながらも行くのだな、と私は少し安心した。
しかし最後の最後、玄関を出るときに波乱があった。
今日は学校が終わってすぐ水泳に行くという予定で、放課後に遊ぶ時間がない。
それを聞いた息子がまた文句を吐き始めた。
「お父さんがノロノロしてるから学校で遊ぶ時間がなくなった」
これを聞いて黙っていられるほど人格者ではない。
私、40過ぎのオジサン。
朝5時15分にしぶしぶ起床し、やる気のなさを振り切って弁当を作り、食器を洗うところまで済ませて今に至る。
息子、8歳男子。
早起きもせず、起きたら即座に動画を見始め、見終わったら黙々と飯を食い、用意された服に着替えて遊んでいた。
文句を言われる筋合いはない。
数日ぶりにブチ切れ、その結果、息子は学校に行かないことになった。
◇
会社に向かいながら考えた。
息子の登校拒否は、結局のところ燃料切れなのである。
ここ10日ほど、息子は期末テストの準備に追われていた。
普段、家で勉強していないからこうなるのだが、ともかく妻がみっちり、時には物を投げながら勉強を教えていたという。
テストは週明けだったので、週末もあまり遊べなかった。
その反動がきているのだろう。
いや、それ言うと、オレは毎日燃料切れなんだよ。
◇
とするとだ。
「毎日登校する」「毎日出社する」のが当たり前という日本社会は、本当にこれでいいのだろうか。
もちろん、「常に予定通り出勤する」という前提が崩れると、社会は混乱するだろう。
電車は動かない。
病院は臨時休診。
コンビニは品切れ。
だから皆、予定通り出勤しなさい、という話になる。
しかし、息子もそうだが、
「おおむね登校できるが、登校したくない日もある」
「基本的には出社できるが、ひどく気乗りしない日もある」
というのが、平均的な人間の、正直な心情なのではないか。
その正直な気持ちに蓋をして、しぶしぶ毎日出かけるのが大多数の労働者であり、大多数の児童生徒である。
正直さを保って、心のままに、行きたくない日は休む。
こんな人はごく少数であり、大抵、社会から厳しい目を向けられる。
自分の気持ちに正直になれない社会は、おかしくないか?
◇
電車の運転やコンビニの商品配達は、予定通りにいかないと皆が困る。
しかし、その仕事は、必要な頭数を「誰か」が充足すればいい。
特定の人が特定の時間に働く必要はないのである。
であれば、その日やる気になった人が働く、という仕組みでもよいのではないか?
雨の日や月曜日など、働きたくない人が多い日は、賃金を上げるなどインセンティブをつければよい。
特定の人が対応しなければ困る、という性質の仕事もあると思う。
もしその「特定の人」が会社の一員であるなら、会社はまず「特定の人でなければできない」「その日でなければ困る」という状況を解消できないか、考えるべきだ。
その上で、社会は「予定変更」に対し、もっと寛容にならねばならない。
「時々は休んでもいい社会」の実現には、心の持ちようも重要だが、技術やアイデアがそれを後押しできるはずだ。
予定変更を素早く察知できる仕組み。
今ある人的リソースを組み合わせて、予定に近いサービスを提供する仕組み。
予定変更のために無駄が発生したら、それを金銭なりサービスなりで補償する仕組み。
ICTだフィンテックだと騒いでいるご時世である。
必ず実現できる。
…たぶんできると思う。
……できるんじゃないかな。
◇
自分の気持ちに素直な息子は、妻と国立近代美術館に出かけていった。
高級ランチつき。
まあ、学校に行くより人生の糧になりそうではあるな。
そして誰も補償してくれない、弁当作りの労力。
昼と同じ弁当を、夕食時に消化する私。
予定変更に寛容になるのは、やっぱり難しい。