今日、学校行かない。

「今日、学校行かない。」

この一言の破壊力は相当なものだ。

「せっかくお弁当作ったのに」などという次元の問題ではない。

学校に毎日行く。それが当たり前だと思って生きてきた私からすると、「学校行かない」は「会社行かない」の始まりなのではないか、と思えてしまうのだ。

息子の「行かない」シリーズは保育園の3歳児から始まっている。

それまでも朝、ぐずることは時々あった。
しかし2歳、3歳では自分の意志を表現し、親の意に反してそれを押し通すことは難しい。
何とかなだめすかして登園させていた。

それが3歳児のとき、ついに保育園に行けなくなった。

直接的には、友達からいじめと思えるような扱いを受けたからだ、ということになっている。

確かにそれも理由だったとは思う。
しかし実際には「友達と話が合わない」「何となく馴染めない」ことが原因だったのでは、と思っている。

結局、保育園を辞め、幼稚園に編入してもらった。
すると、息子の「行かない」はピタリとおさまった。「馴染んだ」のである。

その幼稚園は、上に小学校、中学校、高校と延々連なっている。
幼稚園の友達関係を維持したい。
その一心で、計画外ではあったが、私立小学校に進むという決断を下した。

ところが、また「行かない」なのである。

息子にADHDという診断がついたのは2年生の春だが、それ以前から、学校で「生きにくさ」のようなものは感じていたと思う。
それが「行かない」の大きな原因ではないか、と感じている。

息子がADHDと診断されてから、「発達障害」というワードに敏感に反応するようになった。

関連する記事を見つけると大体読んでいるのだが、以下の記事がなかなか興味深かった。

いま「発達障害」という概念を強く疑わなければいけない理由(現代ビジネス)

私はその方面の研究者ではないので、この記事の内容をどこまで信じていいのか分からない。
しかし、視点としては「なるほど」と思わせるものがあった。

発達障害は脳に起因するものであり、脳の状態が「普通」の人とは違う。
ここまでは科学的に疑いのないところだと思う。

「普通」と違うので、学校生活において問題を抱える。
それは脳に起因するものだから、むやみに叱って従わせても問題は解決しない。
環境を調整し、本人のストレスを減らすように対応していく。

これが、現在一般的に推奨されている発達障害への対応だと思う。
私も概ねこういう理解であった。

しかしこれは、一見その子の「個性」を理解した対応のようでいて、結局は「学校の集団生活に馴染む」ことが親や先生の最終目標になっている。

遠回りはするが、集団生活に馴染めるよう仕向ける。
集団生活に馴染めたら褒める。
学校では個性を抑制することをよしとする。

それは違うのではないか?
あくまで、発達障害といわれる子は、その個性が集団生活とマッチしないだけである。
障害は「子供」の中にあるのではなく、集団生活という「環境」の中にあるのではないか?
これが、前述の記事で主張されていることである。

いや、確かに確かに。

私は単純だから、小学校から高校に至るまで「学校には毎日行く」ということを信じて疑わなかったし、授業中は静かにしていた。

別に学校が好きではなかった。本当は家で本を読んでいたかった。
だが、学校には必ず行くものだ、と思って諦めていた。

しかし、そうでない子がいてもいいではないか。

学校が面白ければ行く。面白くなければ行かない。
体育のある日は行く。勉強ばかりの日は行かない。

それをどうして止めることができようか。

発達障害と登校拒否とサボりをごっちゃにしている気もするが、妙に納得したのであった。

しかし、しかしである。

そうやって自由に、自分の気持ちに正直に振る舞ったとき、息子にはどのような未来が待っているのだろうか。
端的にいえば、息子は職を得て自活していけるのだろうか。

15年後のことなど予想できないが、会社という組織が全滅しているとは思えない。
むしろ日本においては、相変わらず「会社に入って働く」という選択肢が大勢を占めていると思われる。

「授業中じっとしているのが辛いから学校行かない」を貫けば、いずれ「仕事が辛いから会社行かない」になる。
サラリーマン歴20年弱の昭和のオジサンには、そう思えて仕方ないのだ。

幸い、息子には勉強以外に光る能力がいくつか見受けられる。
それを生かして、単なる会社員でない職業を選択する。それが理想だ。

嫌いな仕事はしない。好きなことを仕事にする。
それは私も就職前に考えていたことである。

しかし、理想どおり事が進むとは限らない。
とりあえず、食うに困って会社に身を置かざるを得ないことも十分あり得る。

そのとき、同じ発達障害があっても、「何とかかんとか学校生活をしてきた子」と、「自分に合わないので学校に通わなかった子」では、前者の方がまだ何とかなるのではないか。

前述の記事は、子供に優しいことを言っているように見えて、その子の将来に対して無責任なのではないか。単なる綺麗事なのではないか。

誰か、「お前の考えが古いんだよバーカ」と言ってください。いやホントに。

息子が登校しない日は、登下校する子供たちを見るのが辛い。